私はマララ


わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女

わたしはマララ: 教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女


正直、私はタリバンに襲撃されたというニュースで初めてマララさんを知りました。
国連で堂々とスピーチをしている姿は見事でしたが、それは、以前から彼女がそうやって「すべての子供たちに教育を」と声を上げていたからできたことなのでした。


この本はマララさん個人の物語というだけでなく、パキスタンという、日本ではあまりなじみのない国の内情についてもよく知ることができます。そして、共著者のジャーナリストの人がどの程度コミットしているのかは分かりませんが、とても「読ませる」文章で、どんどん読めます。16歳の少女が書いたとは思えない文章と内容だけれど、彼女が「普通の」16歳ではない、というのはこの本を読めばよく分かります。翻って、平和な国で教育を当たり前のものとして受けてきた16歳の自分がいかに幼かったか、という恥ずかしさも生まれます。


今はガザ侵攻が深刻さを増すばかりで、ウクライナも不安定。シリアも危険。と戦争や紛争は絶えないけれど、それを報道で知っても、どうしたって「遠くの出来事」という認識になってしまう。けれど、この本では、人が殺し合っている現実が自分の住む世界に存在していることが描かれており、これほどの恐怖はない。タリバンがスワートで暴れまわっていた頃の描写は本当に読むのが辛くて、途中で放棄しようかと思ったくらい。報道という立場ではなく、当事者としての記録は本当に貴重だと思う。


それにしても、この本の後半、彼女が銃撃されてから回復するまでの部分を読むと複雑な思いがします。彼女が死に至らず、そして顔の障害もほぼ残らずに済んでいるのはなぜか。それは彼女が死んでしまっては困る、という大きな力が働いていたためだと言わざるを得ません。もちろん、即死でなかったのは本当に奇跡といえると思います。けれど、彼女と同じように「瀕死の」襲撃を受けた人は何百人という単位でいることでしょう。でもその中で「生き残れるための治療」を受けることができ、回復するための治療やリハビリを受けることができた人はどれだけいるのでしょう。それだけの治療が受けられる人とそうでない人、という「命の重み」の選別が確実に起きていること、それは相当読むのがしんどい部分でもありました。


彼女もそれはよく分かっているからこそ、「第二の人生」を「すべての子供に教育を」という活動に注ぐ決意をしているのだと思います。そして、私はその運動を心から応援したいと思います。


あと、この本を読めば「イスラム過激派」というイメージで塗り固められてしまったイスラム教についてのイメージも変わるんじゃないかなと思います。


あ、原著は多分英語だと思いますが、「少女が書いたものだから原著で読めるでしょ」と高を括ると結構しんどいのではないかと思います。パキスタンのことについて詳しく書いてあったりするので。翻訳も私の中で定評のある人の手によるものですし、翻訳で読むのがお勧めです。